この国の法律や司法は善良な一般市民を守ってはくれません。 裁判員制度が始まります。何もやっていないのに罪に問われる人を一人でも多く救ってください。

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きっと法曹界では偉い方なのだろう。
ただ、自分の主張を裁判員制度の裁判員になろうとうする人に理解してもらい、政策をも論破するためには、普通の人にもわかる文章や言い回しをしなくてはいけなということをこの人は理解できていないんだろうなと。

こういう、難解な自分たちの世界でしか通用しない閉ざされた社会の人間が裁判を閉鎖的にやっているから、そもそも裁判員制度を導入しようとしているのではないんだろうかと。

裁判員制度に反対の意見はよく目にする。しかしどれも素人には理解できない言葉で語られている。少なくとも、普通の人が普通に納得できるような言葉で語ることこそ、議論の前提だと感じる。

誰も読まない(読んでも理解できない)正論など愚の骨頂であり、ただの自慰行為だ。

裁判や裁判官、法律専門家そのものに不信感を持たれていることにさえ気付こうとしない。

産経新聞 07:01更新
■「他人を審くなかれ」が普遍の経験則

≪専門家からも適切な警告≫

 さる7月27日付の本欄に於いて筆者は、光華寮事件に関する最高裁の判決は司法権独立の尊厳を自ら放棄して対中迎合の俗論に媚(こ)びたものだ、との厳しい批判を加へ、その際筆のついでに、裁判員制度の導入といふ司法界の知的退廃症状に対し最高裁が意識的不作為、むしろ実施推進の姿勢を取つてゐる倒錯の状に深い不信の念を述べた。ただ裁判員法の性格については〈司法権の独立を脅かす危機とまでは読まないでもよい〉であらうとの感想を付しておいた。

 筆者の感想に対して元東京高裁部統括判事大久保太郎氏が書を寄せられ、これは実は司法権の尊厳の放棄といふべき大不祥事なのだと指摘された。大久保氏は『文芸春秋』11月号掲載の論策「裁判員制度のウソ、ムリ、拙速」の中で、憲法違反の性格が顕著なこの様な悪法は決して施行されてはならない、との正論を強く説いてをられる方である。また氏の学統に列なる西野喜一氏の近著『裁判員制度の正体』は、特定の主張を一巻の書に纏(まと)めた著作としてその精密周到の論述は実に感嘆に値する水準のものである。両氏の論旨にふれての筆者の感慨は、「やはりさうであつたか」の一句に尽きる。筆者は平成18年7月に最高検察庁と法務省刑事局の当路者のお二人に直接面談の形でこの制度についての説明を受け、かなり厳しい批判と疑問を呈しはしたのだが、それでも結果としてこの制度についてのやや甘い見方を持たされてしまつたらしいことを後悔してゐる。

 この悪法を事前に廃棄してしまはなければ国民は悔を千載に遺(のこ)すことになる。その理由について、上に名を挙げたお二人を始めとして複数の法学者や法曹界の実務者から、その法制度的・技術的側面の欠陥を衝(つ)いた適切な警告が発せられてゐる。故にその方面からの批判は専門家にお任せし、ここでは法制的知識については全くの素人が、一般的道徳論の立場から、この悪法を廃止すべき所以(ゆえん)を述べることとする。

≪大衆迎合の風潮が凝縮≫

 第一に、この制度を国民の権利の拡大の一環として肯定的に捉へようと考へる向きがあるが、それは浅薄極まる錯迷である。国民一般は選挙権を行使して立法府の議員を選ぶ(自ら進んで立候補することもある)といふ形で既に立法権に参画してゐる。行政は種々の形でその実践面に民意を反映させる通路を開いてゐる。これらは共に間接的な参加である。ところが裁判員法による国民の司法参加は現場に身を運んでの直接参加であり、しかも自らの意志にはよらない強制されての参加である。立憲政治の骨格をなす三権の中で最も専門職の性格が濃い司法の領域に素人の直接参加を導入しようといふ裁判員法には、現代社会を広く毒してゐる「参加」を標榜(ひょうぼう)しての大衆への迎合の風潮が凝縮して表れてゐる。

 〈なんぢら人を審(さば)くな、審かれざらん為(ため)なり〉(マタイ福音書7、同ルカ6)、〈他の人を審くは正しく己を罪するなり〉(ロマ書2)との古来の定言(ていげん)がある。筆者はキリスト教信者ではないので、これを己の信仰個条としてではなく、ただ人間智の賢者の言として同感をこめて引用しておく。他人を審くなかれ、との命法は、特定宗教の枠を超えて普遍的に妥当する人間の経験則である。

 この定言は人間の本性の真実を言ひ当てたもので、故に裁判官には人間界を超えた高き道理の代行者として、該博なる専門的知識と、宗教的次元のものといふべき高度の職業倫理が要求される。更(さら)にこの二つの必須(ひつす)の資格を補完する要件として現場経験の蓄積がある。

≪司法の尊厳を自ら冒涜≫

 ところで、右に挙げた資格要件のいづれをも欠いてゐる素人が、突如官からの命令により、人を審くといふ危険な職に臨時に携はるといふのは、古の聖賢の言の如く、人として為(な)すべからざることを敢へて為すといふ点でその事自体が既に罪である。

 福音書の教へを奉ずる人間でなくとも(筆者の如くに)良心の命ずる所に従つて、自分はその資格なき故に人を審く立場には立たないと神明に誓つてゐる人は多くゐるであらう。国家はその人々に対して、各自の良心に反する倫理上の罪を犯す事を強制はできない。できると思ひ上つてゐるとすれば、それは国家が個人の良心の領域に踏み込んで罪を唆す行為なのであり、正に天人共に許さざる罪業である。最高裁を頂点とする司法界自体が、この様な人間倫理の蹂躙(じゅうりん)に手を貸すといふ点で、これはやはり司法の尊厳を自ら冒涜(ぼうとく)するの過誤である。裁判員制度の実施を未然に阻止する為に、国民が深く思ひを致すべき今は最後の機会である。

 (こぼり けいいちろう=東京大学名誉教授)
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